隠岐諸島

島根半島の北方、40〜80キロの日本海に浮かぶ隠岐は、住民の住む4つの大きな島と、他の約180の小島からなる諸島です。
隠岐島(おきのしま)とも呼ばれます。
現在は島根県隠岐郡に所属。
島後水道を境に島前(どうぜん)と島後(どうご)に分けられます。
昭和44年に、それまでの4郡1町11村が隠岐郡一郡となり、現在の町村数は「島前三島」と呼ばれる知夫里島(知夫村)・中ノ島(海士町)・西ノ島(西ノ島町)、3町と隠岐の島町の1村。
もともとは、ユーラシア大陸の一部とされていて、「大陸から分離」を経て半島から島へ・・・長い年月をかけて地形が変化し、隠岐が成り立っているとされています。 自然環境・人の営みが世界的に貴重とされ、2013年に「世界ジオパーク/strong>」に認定されました。

文化と歴史

隠岐は古事記の国造り神話の記述の中で「隠岐三ツ子の島」として、本州や九州と並び大八島の一つに数えられるなど、太古の昔から常に日本の歴史の表舞台に登場してきたとされています。
古代国家の体制が成されると共に、島でありながら一国として扱われ、応神朝には隠岐国造が任ぜられるほどだったのでした。
古くは聖武天皇の時代(西暦724年)遠流地として定められ、流刑の島として遠流刑に処せられた人々は数知れず、後鳥羽・後醍醐両帝をはじめとする歴史上の要人が流され、島の文化形成に大きな影響を与えたとされています。
近世は北前船の風待港として栄え、流人のほとんどが牢獄に入ることなく、里人と共に暮らしてきたとも伝えられていて、流人の島としては文化的に比較的恵まれた環境であったといえるでしょう。
承久の乱で隠岐にご配流になられた「後鳥羽上皇」が、角をからませて遊んでいる牛たちの遊びを喜ばれ、失意の上皇を慰めるために「牛突き」がはじまり、日本最古800年の歴史があります。
江戸時代半ばから明治時代にかけ、自然の良港を持つ隠岐は、蝦夷地と上方を結ぶ北前船の風待港として、多くの船で賑わいを見せます。が、明治初頭に「隠岐維新(隠岐騒動)」と呼ばれる島民の蜂起があり、松江藩の統治から独立して、一時は自治政府が樹立されました。
その後、島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治9年(1876年) 島根県への所属に落ち着き現在に至っています。

美しき景観

今からおよそ600万年前に、火山活動によって生まれた島根県の隠岐諸島は、特殊な島の成り立ちから、独特の地形、景観、生態系を有する隠岐は、さまざまな魅力がコンパクトに詰まった日本有数の島とされています。
特に島前は、島前最高峰・焼火(たくひ)山(標高452m)を中心に海を隔てて3島が取り囲む「島前カルデラ」という地形を有し、これは「日本地質百選」にも選ばれているほど。このカルデラを一望できるのが、知夫里島にある「赤ハゲ山展望台(標高325m)」。天気が良ければ、島根半島や鳥取の大山まで見晴るかす絶景パノラマが楽しめるでしょう。
また、日本海側に目を向けてみると、天然ビロードのヨーロピアンな風景が広がり、遠方に見える細長い石垣は、1970年頃まで続いた隠岐独自の「牧畑」の名残とされ、痩せた土地を有効活用するため、石垣で土地を区切って輪作する牧畑農法は一見すると古代遺跡のように見えるかもしれません。
春になると、ここは一面薄紫色の野ダイコンの花が咲き乱れ、また違った絶景も楽しめるのです。
高さ257mの断崖絶壁「摩天崖」や天然アーチの岩の「通天橋」など・・・観音岩に代表される奇岩ぞろいの「天上界」、そして国賀浜と、隠岐随一の景勝地を誇る西ノ島の国賀海岸。これを贅沢に一望できるのが「赤尾展望所」です。こちらは夕景の景勝地としても人気の高いスポットとされています。
そして、何といっても島後の人気NO.1観光スポットが島後北西の沖合に浮かぶ小島「ローソク島」です。海面から約20mの高さがある巨大な奇岩で、夕日が重なる瞬間はまるでロウソクにあかりが灯ったかのように見えることから、この名が付けられました。眼下に望める展望台もあるのですが、夕日が島と重なる景色は遊覧船からしか見ることはできません。
季節や天候の影響もあり、必ず見られるとは限りませんが、夕日が灯る時は感動の瞬間。誰もが魅了される奇跡の光景です。
その他にも、島後には白島海岸、八百杉・乳房杉、壇鏡の滝など、ジオパークとしての見どころもたくさんあります。
隠岐の島に訪れれば、大自然が織りなす圧巻の景色をはじめ、食・文化・人に至るまで魅力に溢れる夢のような体験ができることでしょう。