益田市(ますだし)

益田市は、日本海に面する石見地域に属し、島根県の南西端部にある市です。
昭和27年に市制施行され、平成16年に益田市、美都町、匹見町が合併して、現在の益田市となりました。
県庁所在地である松江市からは160キロメートルほど南西にあり、JR山陰本線を使って約2時間の道のり
山口県とは境を接していたのですが、2004年に行った合併によって広島県とも境を接するように。
浜田市と並んで、島根県西部の石西地域(鹿足郡・旧美濃郡)の中心都市ともされています。
北部は日本海に面し、南部には中国山地に属する標高1000メートル級の山岳が連なっています。三里ケ浜をはじめとする美しい砂浜を持つ海岸線・勇壮な山々という、豊かな自然に恵まれてるのが大きな特徴でしょう。
益田市を流れる清流・高津川はダムのない一級河川で、何度も水質日本一(国土交通省調査)を獲得していて、沿岸では天然物の大型のハマグリが安定して漁獲されています。高津川の鮎や、高津川と日本海が交わる限られた海域に生息する殻長7センチ以上の鴨嶋はまぐりは絶品♪
メロン、トマトの生産量・生産高は県内トップ
市内には自動車専用道路である国道9号線益田道路が走っているほか、中心駅となるJR益田駅の西方には石見空港があり、県西部における空の玄関口として機能しています。

中世文化に触れられる町

中世、石見国西部最大の国人領主・益田氏の城下町であった益田。
江戸時代には浜田藩となり、幕末には幕長戦争の舞台となりました。
益田市には中世の豪族であった益田氏が本拠にした益田本郷地域(現在の益田地区)を中心に、中世の史跡や文化財が多く残っています。
益田氏は、藤原鎌足を始祖として本来、藤原氏を名乗り、平安後期の11世紀頃に、石見国府の国司(今の県知事)として、初代国兼が赴任したことに始まります。
石見国で最も広い平野を有し、交通の要衝と港に適した益田荘を本拠にして以来、益田氏を名乗るようになりました。
益田氏が築いた七尾城の跡と館の跡である三宅御土居は、その全体が今に保存されていることが分かっていて、全国各地の中世城館跡の多くが失われた今日、山城と館からなり、ともに良好に遺構が残る貴重な例として高く評価されています。
また、日本独自の水墨画を確立した画聖として名高い雪舟(せっしゅう)も有名。
室町時代の画聖・雪舟は明代の中国に渡って帰国後に、益田氏が治める現在の益田市を訪れ、数々の作品を描いたり、枯山水(かれさんすい)の庭を築いたりしたほか、晩年にも再訪して、最期を同地で迎えたのでした。
雪舟が晩年を過ごした東光寺(とうこうじ)跡に建つ大喜庵(たいきあん)。本堂の裏側には雪舟の墓があり、今もお参りする人が絶えません。
大喜庵の隣には、雪舟の作品や資料を展示する雪舟の郷(さと)記念館があります。重要文化財である雪舟作の「益田兼堯(ますだかねたか)像」や「花鳥図屏風」(複製)などのほか、高村光雲の木彫「雪舟禅師像」を見ることができます。
御土居跡から東へ約500メートルのところに益田氏菩提寺(ぼだいじ)の萬福寺(まんぷくじ)があり、雪舟が築いた大規模な庭園があります。
仏教の世界観を表す須弥山(しゅみせん)を中心にした石庭は430坪あり、見る者を圧倒することでしょう。
四季折々の風情が素晴らしく、萬福寺の庭園とともに国指定史跡・名勝となっているほど。
その歴史を物語る、港・城・館といった遺跡と景観、寺院や神社・町並み・庭園・絵画・仏像などの一級品がまとまって残っていて、時代と地域の特性を生かして輝いた益田は、中世日本の傑作とも言え、全国でも希有な中世日本を知ることのできる町です。