石見銀山

日本海に面して東西に長く広がる島根県のほぼ真ん中に位置する大田市。
その山麓の大森町には、戦国時代から江戸時代初期にかけて、世界最大級の産出量を誇っていた石見銀山があります。
現在は廃鉱になっています。
2007年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に「石見銀山遺跡とその文化的景観」が登録されたアジアで初めての鉱山遺跡です。
銀山の周辺に残る銀鉱山跡と鉱山町や街道、港と港町なども構成資産として含まれ、その規模は529ha(東京ディズニーランド約11個分)で、当時を彷彿とさせる趣深い町並みには今も人々が暮らし、歴史を伝え残しています。
この遺跡は、東西世界の文物交流及び文明交流の物証であり、伝統的技術による銀生産を証明する考古学的遺跡及び銀鉱山に関わる土地利用の総体を表す文化的景観としての価値を持っています。
銀山開発には銀の精錬のため多くの木材が必要で、山の木が無くなることが通常だったのですが、石見銀山では採掘当時から山を崩したり森林伐採をせずに、銀鉱脈に沿って狭い坑道を掘り進める採掘方法や伐採した数と同じだけ植林を行うなど適切な森林管理が行われていました。
世界的に重要な経済の発展・・・文化の交流を生み出したこと、手作業による銀の生産から搬出に至る全体像が好印象で、周囲の豊かな自然環境とともに文化的景観を形成していることが高く評価されたそうです。
自然を破壊せず、環境への不可の少ない「自然環境と共存した産業遺跡」とされています☆彡

石見銀山の歴史

もともとは、室町時代末期の1526年頃に本格的な開発が始まって、以来およそ400年に渡って銀が採掘された鉱山だったのです。
とくに16~17世紀の戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎え、戦国武将たちが石見銀山を巡って争えば、徳川時代となると幕府直轄領にされ厳しい管理下に置かれました。
17世紀前半には日本は全世界の銀産出量のおよそ3分の1を生産したとされていて、その大部分を石見銀山が占めていたのです。
石見銀山では「灰吹き法」の製錬技術を取り入れ、良質な銀を大量に生産することが出来たとか。
その銀は、初めは中国との貿易で流通していましたが、ヨーロッパ人の参入により世界的な経済・文化の交流に影響を与えることとなりました。

一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたのですが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されています。

石見銀山には銀鉱石を採掘するための坑道である間歩(まぶ)が大小合わせて600箇所以上も残されています。 約870メートルの「大久保間歩」の次に大きな坑道が、全長約600メートルの「龍源寺間歩」です。
銀鉱石を採掘していた横穴式坑道(間歩)の中で唯一、龍源寺間歩が一般公開されています。
大久保間歩はツアーに申し込み、ヘルメットや長靴といった装いで見学可能ですが、こちらの「龍源寺間歩」は、もっと手軽に通年で楽しめます。
世界遺産登録後は注目が集まり、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。
また石見銀山のことをより深く知るための施設などもあって、実際に銀が採掘されていた間歩への見学や、街道を歩きながら当時の雰囲気を感じることがができるでしょう。